2015年01月29日

スリー・ディグリーズの最後の踊り場ヒットは1976年の「ドゥ・イット」。The Three Degrees-Do It



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当サイトでも再三再四ほざいてますが、スリー・ディグリーズが踊り場で爆発的に人気があったのは1974年で、1975年はその勢いも引き継いでおりましたが、案外、日本製フィリーソウル「ミッドナイト・トレイン」「苦い涙」は、歌謡芸能の世界、一般洋楽ファンには支持されておりましたし、それなりに売れたと思いますが、必ずしも踊り場では支持されておらず(だから昨今のダンクライベントでも、殆ど使われない)、続に出された「恋はシャンソン」も、いまいち踊り場では人気が不発で、ちょーっとスリーディグリーズの踊り場人気は下降していきました。

スリーディグリーズに限らず、フィラデルフィアサウンド、所謂フィリーソウル全体が、結果的にはその後の空前のディスコブームの序章とも言えた1975~76年になると人気に陰りが見え始め、1980年前後の世界的な空前のディスコブームで漁夫の利を得る事ができなかったわけで、フィリーソウルの人気のピークは1972~74年頃。スリーディグリーズやオージェイズと共にフィリーソウルの人気者だったスタイリスティックスも、アメリカでのトップ40ヒットは1974年が最後(日本ではヴァン・マッコイとの仕事以降の「愛がすべて」がその後も踊り場で人気だったが)。

そんなスリーディグリーズが踊り場、既にディスコと呼ばれるようになりつつたった1976年、当サイト運営者は「最後の踊り場ヒット」と実感してるのが、こちら「ドウイット」(Do It)。



聴いてもらえばわかる通り、「ドウ・イット」(Do It)は完全な!ディスコサウンドであり、1974年頃の流麗で壮大なオーケストラの奏でるフィリーソウルとはかなり違いますが、踊り場でスリーディグリーズの新譜が久々に人気になった曲でした。

この後、だいたいステージも写真も向かって左側だったフェイエット・ピンクニーがグループを脱退。グループもレコード会社も移籍、ディスコブームのイタリアの仕掛け人!ドナ・サマーをディスコクイーンに仕立てたジョルジオ・モロダーが、1978〜79年の正に!世界的な空前のディスコブーム突入の頃、スリーディグリーズをプロデュースしますが、「恋にギブ・アップ」が少し日本のディスコでも使われたような記憶がありますが、もはやスリー・ディグリーズがディスコで人気者になる事はなかったですね。

posted by 麻呂 at 00:00| スリーディグリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月25日

天使のささやきの大ヒット後の、スリーディグリーズの「愛はメッセージ」(Love Is The Message)









こちら1974年末に発表された「愛のメッセージ」(Love Is The Message)は、スリーディグリーズご本人達が登場したシャープのステレオ、オプトニカのCMにも起用さえ、お茶の間でがんがん流されいたので、全く音楽に興味のない人達、興味があってもR&B、ソウル、ファンクを全く知らない人達(当時はとても多かったし、それが普通だった)でも、TVのブラウン管を通して、スリーディグリーズと「愛のメッセージ」(Love Is The Message)を目にし耳にしておりました。

今も昔もTV、地上波の影響力というのは絶大なものがあるので、おそらく日本で最初に「お茶の間」で多くの日本人に認知された黒人コーラスグループは、スリー・ディグリーズだったと、当サイト運営者は思っております。



当サイト運営者も後から知りましたが、アカデミー賞受賞作品「フレンチコネクション」(1971年度作品。日本公開は72年)に、ブレイク前のスリー・ディグリーズはクラブ歌手として出演しておりましたが、スリーディグリーズがまず日本でその名を轟かせたのは、当時は未だ未だアンダーグラウンドだった踊り場で、アメリカでは必ずしもヒットしなかった「荒野のならず者」がヒットした1974年春から夏にかけて。

この時点では、未だ当時はアンダーグラウンドの踊り場の狭い世界でのムーブメントだったわけですが、次の「ソウルトレインのテーマ」が全米ビルボードチャートで1位になり、アメリカでも大ブレイクした事で、当時日本に沢山いた全米ビルボードマニアの目と耳にスリーディグリーズも、フィラデルフィアサウンドの要の楽団MFSBもとまります。

それでも!今や若いR&B、ソウル、ファンクファンには「名盤」と位置ずけられてる当時の他のニューソウル、ニューファンクもしかりでしたが、アメリカと違い、実はリアルタイム当時ニューソウル、ニューファンクはそれほど若者達に支持されておらず(それ以前のR&Bしかり)、「ソウルトレインのテーマ」も、それほど日本では売れませんでした(踊り場では大人気でしたが)。

なんたって当時の日本は、歌謡史に残る空前の!和製ふぉーくブームの渦中であり、彼等を取り上げた音楽雑誌も売れまくっていたので、普通の若者達は皆、吉田拓郎氏や井上陽水氏、かぐや姫等に靡いて(ある種、神のごとく!崇拝していた)、洋楽ファンもポップスやロックは好んでいても、殆どR&B、ニューソウル、ニューファンクは知らなかったのが実態でしたから。

で、この状況が一変するのが1974年秋、次に出された「天使のささやき」が日本の第3回東京音楽祭で金賞を受賞。

引き続き踊り場でも「天使のささやき」は大ブレイクしましたが(アメリカでも大ヒット)、一般的に日本では、この金賞受賞によってスリーディグリーズの知名度はあがり、「天使のささやき」は日本語ヴァージョンも発売。日本のTVの歌謡芸能番組にもスリーディグリーズは登場。そして同年末に発売された、こちら「愛のメッセージ」(Love Is The Message)はCMにも起用される事になり、スリーディグリーズはお茶の間でもお馴染みになり、老若男女問わず!その存在を知られるようになりました。

正に!スリーディグリーズの日本での人気はこの時期、最高潮で、それまで白人シンガー、白人グループで、こういうムーブメントは日本でも起きた事はありますが、肌の色が黒いシンガー、グループが、これほど!一般的に日本のお茶の間、歌謡芸能の世界で人気者になったのは、過去になかったと、当サイト運営者は思っております。





が、皮肉な事に踊り場でスリーディグリーズの曲が抜群の人気を誇っていたのは、この1975年初頭ぐらいまでで、続く日本の筒美京平氏作曲、ティン・パン・アレイの演奏の和製フィラデルフィアサウンドの「ミッドナイトトレイン」、日本語歌詞の「苦い涙」は、話題性もあり、一般的にはかなり注目されておりましたが、この2曲が当時、踊り場で人気だった記憶が、当サイト運営者は全くありません。

個人的感想ですが、当時の踊り場で遊んでた若者達(子供も)は、ある種の「特権意識」がなきにしもあらずで、周りが知らないブラックミュージックを自分達だけは知ってる。自分達が音楽もファッションも遊びも最先端をいってるという自負が、かなりあったので(実際そうだったとも思います)、お茶の間の人気者になり誰もが知ってるスリーディグリーズは、ちょっと彼等彼女等に引かれたような気がします。

又、スリーディグリーズに限らず、MFSBの大オーケストラを従えヒット曲を連発、一世を風靡したフィラデルフィアサウンド(フィリーソウル)の、今もダンクライベントで使われる「名曲」達は1975年頃までがピークで、かわってマイアミのKC&ザ・サンシャインバンドの「ゲットダウン・トゥナイト」「ザッツ・ザ・ウエイ」が踊り場でこの頃は大人気になり、当時の音楽もファッションも遊びも、自分達が最先端をいってるという自負のあった踊り場の若者達(子供も)は、良くも悪くも「新しもの」好き、、、。

わりとその世界では伝説的に語られる当時の踊り場が、実はけっこう最盛期の寿命はどの店も短かった原因も、このへんの、当時の踊り場で遊んでた連中の「気質」が原因で、スリーディグリーズの曲は1975年当時も踊り場、ディスコでは使われておりましたが、1974年頃の勢い、支持は失われつつあったような記憶が、当サイト運営者はあります(他フィリーソウルも)。

「新しもの」好き達にとって、当時のフィラデルフィアサウンド、フィリーソウルは、もはや「新しくなくなった」わけです、、、。ファッションがアイビーが廃れコンチが流行りだしたのと、感覚は似てるかも、、、。お店も「話題」(と言ってもあくまでも口コミ)のナウい「新しい店」に、どんどん流れ、口コミで「終った」もはや「ださい店」には、踊り場通いの若者達は、とても冷淡でしたし(汗)。

昨今のダンクライベントでも、スリーディグリーズと言えば「荒野のならず者」「天使のささやき」が定番になっておりますが、この2曲に、にこちら「愛のメッセージ」(Love Is The Message)と「幸せの季節」2曲を加えた4曲が、1974年当時、踊り場で抜群の人気を誇っていた頃の、スリーディグリーズの代表曲でした。

posted by 麻呂 at 00:09| スリーディグリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月06日

大衆には認知度があがったけど、踊り場シーンでは人気が低迷しだした頃のスリーディグリーズ にがい涙





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作詞:安井かずみ 作曲:筒美京平 編曲:深町純。1975年、人気絶頂だったスリー・ディグリーズが放った和製フィリーソウルの「苦い涙」。

実はスリー・ディグリーズは、本国アメリカより日本の踊り場に屯っていたツッパリ坊やズベ公が、彼女等の第一弾「荒野のならず者」を支持し、アメリカではあまり売れなかったこの曲を、そこそこヒットさせたわけで(日本人好みのマイナーキーと、少し前に流行っていたマカロニウエスタン風楽曲の影響もあるかも)、第二弾のこちらも有名な「ソウルトレインのテーマ」が見事!全米1位になり、そして「天使のささやき」は1974年、再び日本主催の東京音楽祭世界大会で金賞を受賞。こちらの曲は日本でもアメリカでもイギリスでも大ヒット、各国で1位を獲得。彼女等の人気は揺るぎないものになったわけです。

その後の「愛はメッセージ」も日本のCMとのタイアップで日本で大ヒット。踊り場でも当然、使われおりましたが、遂に!スリー・ディグリーズは「お茶の間」にも浸透し、おそらく当時の一般的にブラックミュージックに殆ど関心も興味もなかった、和製ふぉーくや歌謡曲ファン、或いは白人ハードロックフリーク達に、黒人音楽を身近に感じさせたのは、スリー・ディグリーズだったと思われます(テレビの影響力は今の比ではなかったから)。日本とスリー・ディグリーズの関係というのは、とても深い関係なんですね。

まあ、とはいえコアなブラックミュージックファン、R&B、ブルース、ファンクファンは当時から少数ですがいた事はいたので、スリー・ディグリーズの楽曲は、とてもポップで流麗なサウンドだった為(フィリーソウル全体がそうですが)、所謂ブラックミュージックのブルージーな泥臭ささを感じないという事で、アンチ層もいなかったわけではありません。おそらく2013年現在、還暦前後の当時のそのコアな層は、今もあまりスリー・ディグリーズに思い入れは強くないのではないかと思われます。

日本語で唄われたこちら和製フィリーソウルの「苦い涙」も、当時、日本で彼女等はとても人気が高かったので、歌謡芸能の世界と同じでそれなりに売れましたが、コアなブラックミュージックファンからは、やはり批判され、そして実は、あまり踊り場でも人気にはならなかったと記憶しております。それなりに何度か使われているのは耳にいたしましたが。

1975年前後というのは、時期として踊り場からディスコに流れる丁度時期であり、バンプやハッスル、バスストップとステップの流行り廃りも非常に早い時期で、マイアミから登場したKC&ザ・サンシャインバンドが人気になり、スリーディグリーズも看板スターだった、一世を風靡したフィリーソウル、フィラデルフィアソウルが、そろそろ飽きられてきていた時期でもあり(モータウンも。今もコアなR&Bファンに根強い人気のスタックスは既に倒産していた)、このあたりから本国アメリカは勿論、日本でもスリー・ディグリーズの人気が陰りがみえてきて、多くのシンガー、グループがそうであったように、彼女等も又!1980年前後の空前のディスコブームの頃は「軒を貸して母屋をとられる」ではないですが、その恩恵を受ける事なく、なんとなーく影の薄い存在になっていたのは否めません。





posted by 麻呂 at 16:58| スリーディグリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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