2013年05月06日

大衆には認知度があがったけど、踊り場シーンでは人気が低迷しだした頃のスリーディグリーズ にがい涙





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作詞:安井かずみ 作曲:筒美京平 編曲:深町純。1975年、人気絶頂だったスリー・ディグリーズが放った和製フィリーソウルの「苦い涙」。

実はスリー・ディグリーズは、本国アメリカより日本の踊り場に屯っていたツッパリ坊やズベ公が、彼女等の第一弾「荒野のならず者」を支持し、アメリカではあまり売れなかったこの曲を、そこそこヒットさせたわけで(日本人好みのマイナーキーと、少し前に流行っていたマカロニウエスタン風楽曲の影響もあるかも)、第二弾のこちらも有名な「ソウルトレインのテーマ」が見事!全米1位になり、そして「天使のささやき」は1974年、再び日本主催の東京音楽祭世界大会で金賞を受賞。こちらの曲は日本でもアメリカでもイギリスでも大ヒット、各国で1位を獲得。彼女等の人気は揺るぎないものになったわけです。

その後の「愛はメッセージ」も日本のCMとのタイアップで日本で大ヒット。踊り場でも当然、使われおりましたが、遂に!スリー・ディグリーズは「お茶の間」にも浸透し、おそらく当時の一般的にブラックミュージックに殆ど関心も興味もなかった、和製ふぉーくや歌謡曲ファン、或いは白人ハードロックフリーク達に、黒人音楽を身近に感じさせたのは、スリー・ディグリーズだったと思われます(テレビの影響力は今の比ではなかったから)。日本とスリー・ディグリーズの関係というのは、とても深い関係なんですね。

まあ、とはいえコアなブラックミュージックファン、R&B、ブルース、ファンクファンは当時から少数ですがいた事はいたので、スリー・ディグリーズの楽曲は、とてもポップで流麗なサウンドだった為(フィリーソウル全体がそうですが)、所謂ブラックミュージックのブルージーな泥臭ささを感じないという事で、アンチ層もいなかったわけではありません。おそらく2013年現在、還暦前後の当時のそのコアな層は、今もあまりスリー・ディグリーズに思い入れは強くないのではないかと思われます。

日本語で唄われたこちら和製フィリーソウルの「苦い涙」も、当時、日本で彼女等はとても人気が高かったので、歌謡芸能の世界と同じでそれなりに売れましたが、コアなブラックミュージックファンからは、やはり批判され、そして実は、あまり踊り場でも人気にはならなかったと記憶しております。それなりに何度か使われているのは耳にいたしましたが。

1975年前後というのは、時期として踊り場からディスコに流れる丁度時期であり、バンプやハッスル、バスストップとステップの流行り廃りも非常に早い時期で、マイアミから登場したKC&ザ・サンシャインバンドが人気になり、スリーディグリーズも看板スターだった、一世を風靡したフィリーソウル、フィラデルフィアソウルが、そろそろ飽きられてきていた時期でもあり(モータウンも。今もコアなR&Bファンに根強い人気のスタックスは既に倒産していた)、このあたりから本国アメリカは勿論、日本でもスリー・ディグリーズの人気が陰りがみえてきて、多くのシンガー、グループがそうであったように、彼女等も又!1980年前後の空前のディスコブームの頃は「軒を貸して母屋をとられる」ではないですが、その恩恵を受ける事なく、なんとなーく影の薄い存在になっていたのは否めません。





posted by 麻呂 at 16:58| スリーディグリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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