2016年08月06日

1970年代初頭から中期に踊り場で遊んで人には胸にしみいるナンバー! シャイ・ライツの「ハブ・ユー・シーン・ハー」(Have You Seen Her:邦題 恋は冷たく)









ザ・ドゥービー・ブラザーズのパット・シモンズが、1982年のドゥービーズ解散後(その後、再結成しますが)発表したソロアルバム「アーケード」(Arcade)には、こちらシャイ・ライツの1971年の全米ヒットナンバー(日本では踊り場以外で流行ってなかったですが)、「ハブ・ユー・シーン・ハー」(Have You Seen Her:邦題 恋はつめたく)をカバーしてくれたのは、私的に当サイト運営者、とても!嬉しかった記憶があります。

この手の甘く切ないナンバーですと、1970年代初頭から中期に踊り場で遊んでた方にはフィラデルフィアソウル=フィリーソウルがお馴染みですが、こちらシャイ・ライツはノーザンソウル、シカゴのグループ。

まあ、フィリーソウルは1970年代初頭に大ブレイクしたわけですが、こちらノーザンソウル=シカゴソウルは、デトロイトのモータウン、メンフィスのスタックスと共に60年代のR&Bブーム期に華開いており(あくまでもアメリカで。日本ではリアルタイム、それほど売れてない)、結成は1959年と、たいへん古い伝統あるグループ。

日本でも1990年代に一時人気だったMC・ハマーにも、こちら「ハブ・ユー・シーン・ハー」(Have You Seen Her)をカバーしており、ビヨンセもシャイ・ライツからの音楽的影響というのを、公表しておりますね。








posted by 麻呂 at 14:02| アメリカ ファンク R&B | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月20日

もの凄いグループ名の!「ディスコティックとザ・セックス・オ・レッツ」なるグループの、1970年代中期、踊り場で流行った「ゲット・ダンシング」(Get Dancin’)









1970年代半ば、この後起きる世界的な空前のディスコブーム直前て、かーなり色々調べてみると面白い事が起きてるのがわかるわけで、欧州国しかりですが、謎の覆面ユニットみたいな、まあ、誰かが中心になってスタジオミュージッシャンを集め、ディスコサウンドを提供。

これがかなりの当時の日本の踊り場でも人気になったりしたわけで、こちらグループ名からして凄まじい(笑)「ディスコティックとザ・セックス・オ・レッツ」なるグループの「ゲット・ダンシング」(Get Dancin’)は、1970年代半ば、確実によく踊り場で使われてましたが、好んでたコも多々おりました(女性人気が高かったような記憶があります)。

この手の当時の所謂「企画もの」は、わりと欧州圏に多くみられましたが、こちらの「ディスコティックとザ・セックス・オ・レッツ」は、ニューヨーク、ブロンクス生まれのjoseph moses Montanez, jr,ことSir monti rockをフロントにした、メイドインUSA。

関わっていたのが1960年代からR&Bを中心に、モンキーズ、フォー・トップス、後年にはホイットニー・ヒューストンらにも曲を提供していた敏腕ソングライターのデニー・ランデル、親交が深かったフォー・シーズンズ等のプロデューサーとしても多忙だった、ニュージャージー州出身のBOB CREWE等々、なかなかの裏方の世界では知られた人達。

本当に!何時も思いますが、たかがディスコ、されどディスコでございます。





posted by 麻呂 at 13:43| アメリカ ファンク R&B | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月06日

1974年、当時の踊り場だけの小ヒットだった、ジェームス・ブラウンの「リアリティ」。JAMES BROWN Reality









「マイサング」と共に、それ以前から踊り場で使われ人気だった「セックスマシン」や「スーパーバッド」等に比べると、イマイチ踊り場でもそれほど人気ではなかったと記憶しております。1974年のジェームス・ブラウンの「リアリティ」(Reality)。

踊り場でもそれほどでもなかったという事は、一般的には殆ど知られてなかったと思うので、2016年現在、還暦前後から50代の、当時若者だった人達で、踊り場で遊んでたとっぽかった過去をもたない人で、ジェームス・ブラウンの「リアリティ」を知ってる方は殆どいないでしょう。

1970年代後半になって世界的なディスコブームが吹き荒れ、日本でも踊り場=ディスコが一般的に認知されるようになった頃、ジェームス・ブラウンやJB’sって人気が下降してましたし、もっと「ディスコの子」達は当時、所謂「ディスコサウンド」を好んでいたので、彼等のようなこてこてのファンクは、好まれてはいなかったし、ジェームス・ブラウンはディスコブーム期、必ずしもその恩恵は受けていなかったと言えます。

ジェームス・ブラウン人気が復活するのは(アメリカで)、皮肉な事にアメリカでディスコブームが終焉した後の1986年で、人気映画の「ロッキー」の4作目に出演し「リビング・イン・アメリカ」が久々にヒットしてからで、日本で一般的にジェームス・ブラウンが知られるようになったのも、この人気映画シリーズ出演がきっかけだったと、当サイト運営者は記憶しております。



で、ジェームス・ブラウンが日本で今のように一般的に広く知られるようになる決定的なそれは、1992年に日清のカップ麺のテレビCMに登場してからで、実はかーなり後なんですね。

「セックス・マシン」をパロったこのCMに、よくジェームス・ブラウンが出演OKしたなーとも思いますし、また、この企画を最初に提案した方は、凄いなーと思いましたが、おそらく多分、映画「ロッキー」に出演したジェームス・ブラウンをCM制作関係者の誰かが観たのではないか?と、当サイト運営者は思っております。

というわけで1974年、当時は踊り場で踊ってた連中ぐらいしか知らんかったと思う、当時の踊り場での小ヒット、ジェームス・ブラウンの「リアリティ」を紹介いたしました。





posted by 麻呂 at 02:30| ジェームスブラウン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
ぴかぴか(新しい)こちらもおススメでするんるん